60年代のピニンファリーナやベルトーネが今ここにいたらどんな顔をするだろうか?
今回はイギリスからクラシックカーパーツのスペシャリストSC Parts の参加もありまたお客さんも大勢の海外の方が見受けられた。この2月のショーが世界のクラシックカーショーのメジャーイベントに成長していくことを祈っている。
車趣味は50年を超えましたが古い車にのめり込んでいったのは30年ほど前からでしょうか、ふとしたきっかけでFIAT850クーペを手に入れ当時はまだ少なかったイベントに出始めてからです。この車のおかげでたくさんの貴重な友人を得ました。以来850を数台、パンダ3台、アバルトからビアンキ、プントに至るまで(いまだFIATジャパンから感謝状は来ませんが)FIATに忠誠を誓っています。そんな日々を皆さんと共有したくブログを始めてみました。
今回はイギリスからクラシックカーパーツのスペシャリストSC Parts の参加もありまたお客さんも大勢の海外の方が見受けられた。この2月のショーが世界のクラシックカーショーのメジャーイベントに成長していくことを祈っている。
私がラリーの世界にのめり込んだのは1970年前後、昭和のラリーの全盛期の頃、デビュー戦はJMC 静岡ラリーでした。人様よりちょっとだけ早めに始めたせいで多くの自称”弟子”がいるがその中で出世して1987年と90年のモンテカルロラリーにナビとして挑戦した強者がいる。当時全国ネットのテレビでも放映されたそうだが先日改めて一緒に当時の戦いのビデオを見る機会があった。アウディクワットロやランチアインテグラがトップコンテンダーだった当時で当時から言われていたことだがめちゃくちゃ早いのは上の方の20台程度だけであとは似たようなレベルかずっと遅い、参加することに意義あり、のチームが大半で我が日本チームもSSでは30位前後のタイムをコンスタントに出していたそうです。ドライバーは当時のラリーファンなら誰もが知る名前で当然と言えば当然だが遠距離参戦のハンディ、を考えると実力はもうちょっと上だったように思う。私自身は3重苦(才能無し、体力無し、銀行預金無し)、あったのは時間の余裕と情熱、練習の機会だけで当時の全日本クラスの一番下でかろうじてシードをもらえる程度までしか行けなかったが懐かしい思い出です。