2009年12月24日木曜日

おもちゃの蚤の市、横浜ワンダーランドに出店しました

今回は昔話は少しお休みさせていただいて昨日出かけた面白いイベントについてのご報告です。
横浜の山下公園の近くの産貿ホール(パスポートセンターがあるビルです)で開かれたおもちゃの蚤の市、ワンダーランドに30年来の友人のM氏に誘われ出店することにしたのです。対象はおもちゃ全般、何でもアリだそうですが中でも横浜は自動車のおもちゃが多いそうです。 古い自動車なんでも大好きの”FIATおじさん”としてはこれは面白そう、というわけで売れそうなガラクタ一式を積み込み、奥方は“私アメリカで買ってきたスーパーのエコバッグ売ってみる”というわけで2人して早起きをして出かけました。
8時30分から搬入、10時に開場、それと同時にお客様が入場されるわけですがまあそのお客様の(大半は私とあまり変わらない年代とお見受けしましたが)血走った眼、獲物を探す熱気はすごいものですね。 私とて元自動車少年、その昔、レベルやモノグラムのスロットカーに夢中になりロータス30やデイトナコブラ(車種がすごいでしょう)を走らせ、そのうちストックでは物足りなくなりモーターを巻き直したり、サスのシャフトを切ってネガティブキャンバーを付けたりしたものですがここに見えるお客様の知識たるや相当のものとお見受けしました。 趣味に狂っている亭主族を評して奥様連はよく“困ったもんだ”と言いますがここに来る人たちの“困ったもんだ”度合いは我が1/1 の古い車と暮らしている仲間以上に濃いもののようです。
そんな訳で私が持ち込んだガラクタ(失礼、Automobilia) は少々ピントが外れていたようであまり売れなかったのですが(とは言っても勉強しながらお小遣いには十分なりました)ヒットしたのは奥方が持ち込んだアメリカのエコバッグ、安価でオシャレ、且つ環境に貢献している感じがいいのでしょうか持っていった在庫をほとんど全部売ってしまいました。 当然奥様大ハッピー、かくしてFIATおじさんのホビービジネスへの理解も深まるというわけです。
次回は4月だそうです。それまでにここに集まる“困った?”人たちのお眼鏡にかなうおもちゃを発掘すべくまたファイトがわいてきました。
ご参考までに大好評だったエコバッグの写真添付します。
                                     FIATおじさん


これがそのエコバッグの一例です。なんでもアメリカ西海岸の高級スーパー(日本での紀伊国屋や成城石井のようなものでしょうか)トレイダージョーズという店のエコバッグで各種ありますがこの写真の例は中が保冷になっている優れものです。そういえば日本のエコバッグよりもおしゃれかも。

2009年12月20日日曜日

第3回日本GP 

年をとってくるととかく昔話をしたくなるのだそうです。そんな訳でまたまた古い日本GPの話ですがいましばらく辛抱してお付き合いよろしくお願いします。

前回鈴鹿の第1回、第2回と書きましたが翌65年は日本GPは中止、理由はよくわかりませんでしたが非常に残念な思いをしたのはよく覚えています。明けて66年、今回から舞台は富士へと移りました(このあたり最近のF1と同じでいろいろな駆け引きがあったのでしょうか?)。高校生になっていた和歌山の田舎自動車少年はまたまた父親にせがんで今回は(すでに新幹線は開業していましたがそれだと到着が遅くなってしまうので)なんと夜行列車に乗って見に行くことになりました。当日は素晴らしい快晴、富士山が見事な景観を見せていたのをはっきりと覚えています。
今回はワークスティームに対抗して滝進太郎がプライベートながら最新のカレラ6を持ち込み生沢徹をはじめとするプリンス勢のR380を迎え撃つこととなりました。また酒井正がデイトナコブラで参戦(あのたった6台しか作られなかったという車です)、トヨタは2000GTプロトタイプで、また小排気量分野ではダイハツがP3で参戦と台数は少ないながら興味深い陣容でした。
レースは明らかに滝のカレラ6がプリンスR380より早かったのですが巧みなチームワークと滝のコースアウト、リタイアに助けられ砂子のR380が制することとなりましたが少年の目には多少フロントを浮かせ気味に疾走する白いカレラ6の勇姿が焼きつき学校のテストの裏のスケッチにしばしば登場することとなりました。また正面スタンド裏の駐車場でメルセデス300SL(誰の持ち物だったのでしょうか?)とジャガーEタイプを見つけその横で撮った写真は長く少年の宝物となりました。
この頃になると生沢のみならず後に日本のレース界の重鎮となる高橋国光や北野元、津々見、浅岡、田中健次郎等の名ドライバーの顔ぶれが成績表の上位に登場するようになりました。
さてレースが終わっての帰りです。
サラリーマンだった父親はどうしてもその日のうちに和歌山まで帰らねばならず4時頃でしょうか帰路につきました --- といってももちろん車ではなくバスで御殿場駅まで帰らねばなりません。ところがバスはいつ来るかわからない状態、意を決して歩き始めました。場所はよく覚えていませんがたぶん今の東ゲートの近くのダート道だったと思います。10-20分ほど歩いたころなんとラッキーなことに路線バスが通りかかり手をあげたら止まってくれたのです。たぶん明神峠入口あたりまで行くバスだったのでしょうか、一日に何本もないはずのバスがしかも停留所以外のところで止まってくれた、こんな奇跡的なラッキーがあり無事熱海駅に6時過ぎに到着(まだ三島はなかったのでしょうかなぜか新幹線に乗るために熱海に行ったのを覚えています)7時前後のこだまに乗り深夜に和歌山に帰りつきました。初めて乗った新幹線の速さは今もはっきりと心に焼きついています。
この前後からしばらくはクラブマンレースの全盛期でいくつかの名勝負があった良き時代です。
今回は前回時間の都合で載せられなかった初めて買ったカーグラとその後の第1回、第2回日本GP特集号の表紙の写真を添付します。

次回、大学生になった少年はラリーにのめり込んでいくこととなり創生期の日本のラリーのお話をしたいと思います
初めて買ったカーグラ、それこそ一字一句暗記するほどに読みました。


第1回日本GP特集










第2回日本GP特集

2009年12月17日木曜日

第2回日本GP  

前回に引き続き創生期の日本GPの思い出をつづってみたいと思います。

ピーターウォーのロータス23の異次元の速さにすっかり参ってしまった少年は翌年の第2回GPも父親にせがんで見に行くこととなりました。
この年はメインの招待レースはフォミュラージュニアで戦われることになり(戦前のオープンホイールレーサーを別とすれば)初めて葉巻型をしたフォミュラーカーが日本の地を走ることになりました。 昨年は小排気量故同じロータス23ながらピーターウォーに及ばず2位となったマイケルナイトがブラバムFJを駆り見事ロータス27に乗るピーターウォーに雪辱を果たしました(実戦向きのブラバムに比べロータス27はやや理想主義的で鈴鹿に合わせたセッティングが難しかったかもしれません)。GT1クラスでは後にホンダF1のデビュードライバーとなるロニーバックナムが見事優勝(実際はマイケルナイトのマルコスが優勝したがフライングスタートでペナルティーを課せられ5位に転落)、ホンダSの性能と信頼性を見せつけました。
GT2は式場壮吉のポルシェ904と生沢徹のスカGの伝説となったレースです。実は鈴鹿に着いた時はこのレースがすでに始まっていてちょうど生沢が式場を抜いたラップでした。今考えれば(いくら赤バッジとはいえ)そもそもファミリーカーベースのスカイラインGTとレース用に開発されたサラブレッドのポルシェ904ではまともな戦いになるハズはないのですが当時中学生の自動車少年にはそんなことは知る由もなくトップを走るスカGの勇姿にただ感動しました。
これ以外には特に記憶に残っているレースはありませんが昨年の反省からか十分なレース準備をしたプリンスチームの強さが印象に残っています。
この年の観客数は記憶にありませんが昨年と大差ない大観客だったのではないかと思います。

第3回は舞台が新規にオープンなった富士スピードウエイに移ります。
”FIATおじさん”たる所以のFIATのお話がなかなか出てきませんが次回もう一度日本GP思い出話にお付き合いください。
                                    FIATおじさん

2009年12月15日火曜日

ごあいさつ、第1回日本GPの思い出

ブログを始めますと発表してはや1カ月、知人から早くしないとみんなに忘れられちゃうよ(!!)と督促の嵐、やっと重い腰を上げて一念発起、まずはご挨拶から、

トップページにも書きましたが車趣味歴は50年以上、小学生5-6年生頃でしょうか少年マガジンという雑誌の最終ページに世界の自動車が美しいカラー写真でシリーズで紹介され車の世界にのめり込んでいきました。中でも赤いクライスラー300(あのライトが斜めになったやつです)が今でも強く印象に残っています(今でもこの頃のアメリカ車が好きなのはこの影響でしょうか)。すぐに街を走る車の名前は全部わかるようになりました。少し後になって本屋でカーグラフィックの63年3月号を見つけ購入、一字一句残さず暗記するほどに読みあさりご多分に洩れず熱烈な“小林教”の信者となり45年後の今日に至っています。ちなみにこの頃のカーグラは今も我が家に(表紙にカバーをかけて!!)大切に保管されています。

この年の5月第1回の日本GPが鈴鹿で開かれ父親に無理を言って連れて行ってもらいました。初めてのモータースポーツとの出会いです。ピーターウオーの駆るロータス23の異次元の速さと本物(?)のレーシングエンジンの快音にすっかり参ってしまい以後テストの答案の裏はびっしりとロータス23で埋め尽くされることとなりました(おかげさまでこの頃は和歌山の田舎の中学校では“良く出来た?”らしくテストで苦労した記憶はなく答案用紙の裏にロータス23を数台書いても時間は十分のようでした)。
この頃の車好き田舎少年の頭にはまだフェラーリやアストンはインプットされてなく、世界最高のスポーツカーはベンツ300SLで最高速度は250KM,次はジャガーXK-E、0-400M加速は300SLより早い、といったところだったでしょうか?
ピーターウオーの最速ラップタイムは確か2分41秒程度だったと記憶していますが彼がジムクラークなら2分30秒を切っただろうと語っていた記事を読みまだ見ぬジムクラークとは一体どんなドライバーだろうと夢を膨らませたものでした。
それ以外ではハンシュタインの駆るポルシェカレラの華麗なるカウンターステア(当時は逆ハンと言っていたと思います)を見てその理屈も何も分からない少年はただただ目を白黒させたものでした。
今考えるに車もドライバーもかなりの役者がそろった招待リストだったと思います(招待するほうも鈴鹿でロータス23がこれほど早いと思わなかった??)
招待レースがあまりの衝撃だったためかそれ以外のレースは残念ながらほとんど頭に残っていないのですが贔屓の外国製スポーツカーをしり目にフェアレディーが頭をとったこと、軽のクラスでスズライトが快走したことなどが思い出されます。当時の自動車少年には軽度にチューンしてあるのとまったくのノーマルの差など分かるはずもなくレースに勝った=早い、良い車という方程式が何の疑いもなく成り立っていた良き時代でした。ちなみにこのレース2日間で延べ30万人(!!)が見に行ったことになっているようです。多少楽観的数字とは思いますが昨今のレースの観客数を考えると車や外国が夢であった古き良き時代を感じます。


次回は伝説のスカイラインvsポルシェ904が登場する第2回GPの思い出をつづりたいと思います

2009年11月10日火曜日

Hello, World!!



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