2009年12月15日火曜日

ごあいさつ、第1回日本GPの思い出

ブログを始めますと発表してはや1カ月、知人から早くしないとみんなに忘れられちゃうよ(!!)と督促の嵐、やっと重い腰を上げて一念発起、まずはご挨拶から、

トップページにも書きましたが車趣味歴は50年以上、小学生5-6年生頃でしょうか少年マガジンという雑誌の最終ページに世界の自動車が美しいカラー写真でシリーズで紹介され車の世界にのめり込んでいきました。中でも赤いクライスラー300(あのライトが斜めになったやつです)が今でも強く印象に残っています(今でもこの頃のアメリカ車が好きなのはこの影響でしょうか)。すぐに街を走る車の名前は全部わかるようになりました。少し後になって本屋でカーグラフィックの63年3月号を見つけ購入、一字一句残さず暗記するほどに読みあさりご多分に洩れず熱烈な“小林教”の信者となり45年後の今日に至っています。ちなみにこの頃のカーグラは今も我が家に(表紙にカバーをかけて!!)大切に保管されています。

この年の5月第1回の日本GPが鈴鹿で開かれ父親に無理を言って連れて行ってもらいました。初めてのモータースポーツとの出会いです。ピーターウオーの駆るロータス23の異次元の速さと本物(?)のレーシングエンジンの快音にすっかり参ってしまい以後テストの答案の裏はびっしりとロータス23で埋め尽くされることとなりました(おかげさまでこの頃は和歌山の田舎の中学校では“良く出来た?”らしくテストで苦労した記憶はなく答案用紙の裏にロータス23を数台書いても時間は十分のようでした)。
この頃の車好き田舎少年の頭にはまだフェラーリやアストンはインプットされてなく、世界最高のスポーツカーはベンツ300SLで最高速度は250KM,次はジャガーXK-E、0-400M加速は300SLより早い、といったところだったでしょうか?
ピーターウオーの最速ラップタイムは確か2分41秒程度だったと記憶していますが彼がジムクラークなら2分30秒を切っただろうと語っていた記事を読みまだ見ぬジムクラークとは一体どんなドライバーだろうと夢を膨らませたものでした。
それ以外ではハンシュタインの駆るポルシェカレラの華麗なるカウンターステア(当時は逆ハンと言っていたと思います)を見てその理屈も何も分からない少年はただただ目を白黒させたものでした。
今考えるに車もドライバーもかなりの役者がそろった招待リストだったと思います(招待するほうも鈴鹿でロータス23がこれほど早いと思わなかった??)
招待レースがあまりの衝撃だったためかそれ以外のレースは残念ながらほとんど頭に残っていないのですが贔屓の外国製スポーツカーをしり目にフェアレディーが頭をとったこと、軽のクラスでスズライトが快走したことなどが思い出されます。当時の自動車少年には軽度にチューンしてあるのとまったくのノーマルの差など分かるはずもなくレースに勝った=早い、良い車という方程式が何の疑いもなく成り立っていた良き時代でした。ちなみにこのレース2日間で延べ30万人(!!)が見に行ったことになっているようです。多少楽観的数字とは思いますが昨今のレースの観客数を考えると車や外国が夢であった古き良き時代を感じます。


次回は伝説のスカイラインvsポルシェ904が登場する第2回GPの思い出をつづりたいと思います

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