2009年12月20日日曜日

第3回日本GP 

年をとってくるととかく昔話をしたくなるのだそうです。そんな訳でまたまた古い日本GPの話ですがいましばらく辛抱してお付き合いよろしくお願いします。

前回鈴鹿の第1回、第2回と書きましたが翌65年は日本GPは中止、理由はよくわかりませんでしたが非常に残念な思いをしたのはよく覚えています。明けて66年、今回から舞台は富士へと移りました(このあたり最近のF1と同じでいろいろな駆け引きがあったのでしょうか?)。高校生になっていた和歌山の田舎自動車少年はまたまた父親にせがんで今回は(すでに新幹線は開業していましたがそれだと到着が遅くなってしまうので)なんと夜行列車に乗って見に行くことになりました。当日は素晴らしい快晴、富士山が見事な景観を見せていたのをはっきりと覚えています。
今回はワークスティームに対抗して滝進太郎がプライベートながら最新のカレラ6を持ち込み生沢徹をはじめとするプリンス勢のR380を迎え撃つこととなりました。また酒井正がデイトナコブラで参戦(あのたった6台しか作られなかったという車です)、トヨタは2000GTプロトタイプで、また小排気量分野ではダイハツがP3で参戦と台数は少ないながら興味深い陣容でした。
レースは明らかに滝のカレラ6がプリンスR380より早かったのですが巧みなチームワークと滝のコースアウト、リタイアに助けられ砂子のR380が制することとなりましたが少年の目には多少フロントを浮かせ気味に疾走する白いカレラ6の勇姿が焼きつき学校のテストの裏のスケッチにしばしば登場することとなりました。また正面スタンド裏の駐車場でメルセデス300SL(誰の持ち物だったのでしょうか?)とジャガーEタイプを見つけその横で撮った写真は長く少年の宝物となりました。
この頃になると生沢のみならず後に日本のレース界の重鎮となる高橋国光や北野元、津々見、浅岡、田中健次郎等の名ドライバーの顔ぶれが成績表の上位に登場するようになりました。
さてレースが終わっての帰りです。
サラリーマンだった父親はどうしてもその日のうちに和歌山まで帰らねばならず4時頃でしょうか帰路につきました --- といってももちろん車ではなくバスで御殿場駅まで帰らねばなりません。ところがバスはいつ来るかわからない状態、意を決して歩き始めました。場所はよく覚えていませんがたぶん今の東ゲートの近くのダート道だったと思います。10-20分ほど歩いたころなんとラッキーなことに路線バスが通りかかり手をあげたら止まってくれたのです。たぶん明神峠入口あたりまで行くバスだったのでしょうか、一日に何本もないはずのバスがしかも停留所以外のところで止まってくれた、こんな奇跡的なラッキーがあり無事熱海駅に6時過ぎに到着(まだ三島はなかったのでしょうかなぜか新幹線に乗るために熱海に行ったのを覚えています)7時前後のこだまに乗り深夜に和歌山に帰りつきました。初めて乗った新幹線の速さは今もはっきりと心に焼きついています。
この前後からしばらくはクラブマンレースの全盛期でいくつかの名勝負があった良き時代です。
今回は前回時間の都合で載せられなかった初めて買ったカーグラとその後の第1回、第2回日本GP特集号の表紙の写真を添付します。

次回、大学生になった少年はラリーにのめり込んでいくこととなり創生期の日本のラリーのお話をしたいと思います
初めて買ったカーグラ、それこそ一字一句暗記するほどに読みました。


第1回日本GP特集










第2回日本GP特集

1 件のコメント:

  1. こんにちは。始めて書き込みいたします。
    第三回の日本GPはTVでの観戦でした。サポートレースのGTカーレースも中継がありました。
    Porsche 906のかっこよさにあこがれたものでした。実際の観戦は翌1967年からです。

    開業当時の新幹線には三島駅はなかったと記憶しています。熱海の次は静岡でした。

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